近年、アメリカやヨーロッパを始めとして、「人的資本経営」の考えが世界中で注目を集めています。この潮流を受け、日本では2023年から主に上場企業に対して人的資本の情報開示が義務化されました。
ですが、「人的資本経営という言葉はよく耳にするけど、実はあまり理解できていない」という方もまだまだ多いのではないでしょうか。
そこで本記事では、人的資本経営の概念や企業の事例、伊藤レポートの内容などをわかりやすくご紹介します。
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「人的資本経営」の意味
経済産業省は、人的資本経営の定義を以下のように表現しています。
人的資本経営とは、人材を「資本」として捉え、その価値を最大限に引き出すことで、中長期的な企業価値向上につなげる経営のあり方です。
経済産業省公式HP
以下の章では、人的資本経営についてさらに詳しく見ていきましょう。
従来の経営との違い
従来の経営において、人材は「ヒト・モノ・カネ」の3大経営資源の一つとして考えられてきました。資源とは「消費されるもの」であり、つまり「いかに少ない人数で効率的に管理するか」という考えが一般的だったのです。
一方、人的資本経営では人材を「資本」として捉えています。そのため、教育や研修だけではなく、エンゲージメント調査などの投資を通じて、中長期的な企業価値向上を後押しするものとして考えます。
人的資本経営が重要視される背景
ここでは、人的資本経営の考えが広まっている背景をご紹介します。
①:無形資産への注目
内閣府HPに掲載されているOCEAN TOMO(アメリカ)の調査によると、2020年度の日本の時価総額に占める無形資産の割合は32%で、10年間で17ポイント上昇しています。
つまり、投資家などステークホルダーは、企業の将来性を判断する上で、人的資本を含めた「無形資産」を投資指標として評価する傾向が高まっているのです。
今後もこの流れは続くと予想され、人的資本は企業価値を左右する大きな要素になっていくと考えられます。
②:デジタル社会における経営戦略
技術革新により、近年ではビジネスのあらゆる場でAIやロボットが利用されるようになりました。そのため、人材を「業務に必要な頭数を投入する」といった従来の考えから、「イノベーションを創出する」という人間にしかできない価値に目を向けることが必要となったのです。
特に、レッドオーシャンな市場では、他社と差別化を図るためには「人材の価値を最大限に活かす」人的資本経営の考えが必要です。
③:多様な働き方への注目
少子高齢化により、シニア世代や外国籍労働者など労働人材の多様化が進んでいます。また、近年では育児や介護と仕事の両立も叫ばれるようになり、時短勤務やリモートなどの働き方への要望も増えています。
終身雇用や新卒一括採用などを前提とする従来の均一的な人材管理は限界を迎え、働き方に関する企業の新たな進化が求められているのです。
そのため、多様なニーズに応えつつ、一人ひとりの人材を活かせる「人的資本経営」が普及していると考えられます。
人的資本経営を行うメリット
この章では、人的資本経営を取り入れる3つのメリットをご紹介します。
①:企業価値の向上
人材育成に注力していることを社外に発信することで、社会の信用も得やすくなります。結果として、企業イメージの向上も期待できます。企業ブランド向上にともない、優秀な人材の獲得、投資家などのステークホルダーからの信頼獲得など、企業の競争力を高めることにもつながります。
②:従業員のモチベーション向上
人的資本経営は、従業員のモチベーションを高めるといったメリットもあります。
人材育成に力を入れることにより、従業員が「自分たちにコストをかけてくれる」「自分たちを大切にしてくれる」と感じやすくなります。企業への帰属意識が高まることで、個々のパフォーマンスが向上したり、離職率の低下につながったりします。
③:生産性の向上
繰り返しになりますが、人的資本経営では、人材に対して教育や研修などの投資を行います。その結果、従業員のスキルアップや成長が促進され、企業全体での利益拡大が期待できます。
生産性が向上すれば、また違う投資をすることができるため、従業員も企業自体も成長するという好循環につながります。
日本と海外の違い
人的資本経営は、日本のみならず、世界各国で注目を集めている一方で、その切り口は日本と海外で大きく異なります。
海外の動き
以下のように、海外ではEU(欧州連合)の動きを皮切りに、欧州やアメリカで人的資本に関する取り組みが加速しています。
- 2014年:EUが非財務情報開示指令(NFRD)を発行し、従業員500人以上の企業に対して人的資本の開示を義務化
- 2018年:ISO(国際標準化機構)が、人的資本情報開示のためのガイドライン「ISO30414」を発行
- 2020年:米国証券取引委員会(SEC)がRegulation S-Kを改正し、上場企業に対して人的資本の開示を義務化
- 2021年:IFRS財団が国際サステナビリティ基準審議会(ISSB)を設立し、人的資本を含む非財務情報開示の国際基準を策定
日本の動き
- 2020年:経済産業省が、人的資本経営の土台となる「人材版伊藤レポート」を公開
- 2021年:東京証券取引所が「コーポレートガバナンス・コード」を改訂し、人的資本の情報開示の義務化に関する内容を記載
- 2022年:内閣府が、人的資本の情報開示に関する手引き「人的資本可視化指針」を発行
- 2023年:大手企業約4,000社に対して、人的資本の情報開示の義務化がスタート
日本はアメリカや欧州と比べてやや遅れをとっているように見えますが、人的資本経営に関しての取り組みや制度の整備は、ここ数年で急速に進められていることがわかります。
次の章では、人的資本経営を理解するうえで欠かせない、「人材版伊藤レポート」について紹介していきます。
人材版伊藤レポートから読み解く「人的資本経営」
2020年に人材版伊藤レポートが発表されて以降、日本では人的資本経営の重要性についての様々な見解が広まりました。この章では、伊藤レポートの概要や人的資本経営のフレームワーク「3P・5Fモデル」についてご紹介します。
人材版伊藤レポートの概要
人材版伊藤レポートとは、経済産業省が2020年9月に公表したもので、「人的資本」に焦点を当て、企業の持続的な成長のための取り組みや指針を示した報告書です。
また、人材版伊藤レポートをより具体化したものとして、2022年5月に「人材版伊藤レポート2.0」も公表されています。
「人材版伊藤レポート2.0」には、以下の内容が記されています。
人材は「管理」の対象ではなく、その価値が伸び縮みする「資本」なのである。企業側が適切な機会や環境を提供すれば人材価値は上昇し、放置すれば価値が縮減してしまう。人材の潜在力を見出し、活かし、育成することが、今まさに求められている。
経済産業省:人材版伊藤レポート2.0
こうした課題を解決し人的資本経営を実践するために、人材版伊藤レポートでは、下図の「3P・5Fモデル」を提唱しています。以下の章では、人材戦略に必要な3つの視点(3P)と5つの共通要素(5F)について解説します。
人材戦略に必要な3つの視点(3P)
まず、人的資本経営を実現するために必要な3つの視点(3P)について解説します。
①:経営戦略と人材戦略の連動
人的資本経営を成功させるために最も重要なのが、経営戦略と人材戦略の連動です。
経営戦略と人材戦略のつながりを意識しながら、必要な人材の採用や配置、教育などの具体的なアクションやKPIを検討していきます。
目先の人材不足を補う人材管理ではなく、「どのように人材戦略を練れば経営目標を達成できるか」という視点が必要になります。
②:As is-To beギャップの定量把握
企業の現在の状況(As is)と、企業が目指す姿(To be)のギャップを定期的に見直すことも、人的資本経営には欠かせません。
このステップでもっとも重要なのが、できるだけ定量的にデータを把握することです。従業員の人数だけでなく、スキルや能力のデータを収集・分析し、理想とのギャップを埋めるための施策を考えながら、PDCAサイクルを回していきます。
③:企業文化への定着
人事や経営陣のみが人的資本経営を実践しても、従業員の共感を得ていなければ成功とは言えません。従業員が企業文化に定着してはじめて、従業員エンゲージメントやパフォーマンス向上が期待できるからです。社員のことを考えているということを経営陣が粘り強く発信し続けることが非常に大切です。
また、従業員のエンゲージメント指数など行動変容を促すKPIを設定し、一人ひとりを適切に評価することも重要です。
人材戦略に必要な5つの共通要素(5F)
先述の3つの視点に続き、人的資本経営を成功させるための5つの共通要素(5F)についても見ていきましょう。
①:動的な人材ポートフォリオ
人材ポートフォリオとは、企業における人材の構成をまとめたものです。具体的には、「どのような経験・スキルを持った人材が、どの部署に何名いるか」などといった項目を可視化します。
これをリアルタイムで把握・分析することにより、企業目標達成に向けて柔軟に人材を配置できます。
②:知・経験のダイバーシティ&インクルージョン
中長期的に企業価値を高めていくためには、イノベーションを生み出していくことが非常に重要です。
ダイバーシティ&インクルージョンとは、性別・国籍・年齢などの属性に加え、他業界での経験・専門性・価値観・ライフスタイルなどの「多様性(=ダイバーシティ)」を、積極的に「受容(=インクルージョン)」していくことを指します。
イノベーションの原動力はまさに多様性の掛け合わせから生まれるものであり、目まぐるしく変わるビジネスの中でも、企業が柔軟に対応していくことが可能になります。
③:リスキリング・学び直し
人的資本経営を実践するためには、企業が従業員に対してリスキリング(新たなスキルを習得すること)や、学びなおしの機会を設けることも欠かせません。
ビジネス環境の急な変化に対応するためにも、従業員の自律的なキャリア構築が必要となります。また、経営者自身がリスキリング・学びなおしを率先して行い、DX化(デジタルトランスフォーメーション)推進や、組織変革を実現していくことも重要です。
④:従業員エンゲージメント
従業員エンゲージメントとは、企業において従業員がやりがいや働きがいを感じ、自発的に「企業に貢献したい」と感じながら働くことを指します。
従業員エンゲージメントを高めるためには、企業と従業員が対等な関係であることや、企業と個人が同じベクトルで目標に向かっていくことが重要になります。そのためには、経営トップが積極的に発信や対話を行うことで従業員の共感や納得を得ながら、できるだけ情報をオープンにして認識を合わせていくことが望ましいでしょう。
⑤:時間や場所にとらわれない働き方
在宅勤務やリモートワーク、フレックス勤務など、時間や場所にとらわれず働ける環境を整備することも重要です。これには、単に制度を整えるだけでなく、たとえば「在宅勤務でも業務が完結できる」といった目標を達成するための業務プロセス改善なども含まれます。
また、異なった時間・場所で働く従業員をマネジメントできるように、マネージャー層のリーダーシップやスキルなどの育成もカギとなります。
人的資本経営で開示が求められる項目
有価証券報告書を発行する約4,000社の大手企業に対して、現時点で7分野19項目の開示が求められています。
下図のとおり、2023年度より開示義務化されているのが「人材育成方針」・「社内環境整備方針」・「女性管理職比率」・「男性育休取得率」・「男女間賃金格差」の5点です。
分野 | 項目 | 開示義務の有無 |
人材育成 | ① リーダーシップ② 育成③ スキル・経験 | 以下2点の開示義務あり(指標・目標) ・人材育成方針・社内環境整備方針 |
従業員エンゲージメント | ④ 従業員満足度 | 開示が望ましい |
流動性 | ⑤ 採用⑥ 維持⑦ サクセッション | 開示が望ましい |
ダイバーシティ | ⑧ ダイバーシティ⑨ 非差別⑩ 育児休業 | 以下3点の開示義務あり(指標・目標) ・女性管理職比率・男性育休取得率 ・男女間賃金格差 |
健康・安全 | ⑪ 精神的健康⑫ 身体的健康⑬ 安全 | 開示が望ましい |
労働慣行 | ⑭ 労働慣行⑮ 児童労働・強制労働⑯ 賃金の公正性⑰ 福利厚生⑱ 組合との関係 | 開示が望ましい |
コンプライアンス | ⑲ コンプライアンス | 開示が望ましい |
(引用:内閣官房|人的資本可視化指針)
人的資本経営を実践する流れ
この章では、人的資本経営を実践するための具体的な3ステップについて解説します。
①:経営戦略と人材戦略を連動させる
先述のとおり、経営戦略と人材戦略を紐づけることは非常に重要です。
まずは企業の中長期的な経営目標を明確にし、目標達成に向けた経営戦略を策定しましょう。具体的には、「どのような人材がどれくらい必要なのか」、「どのような教育体制が必要か」、「どんな組織にする必要があるか」など、経営戦略の一部として人材戦略を策定・実践していきます。
②:KPI設定と施策の検討
次のステップでは、目標達成に向けて定量的なKPIを設定しましょう。KPIを設定することで、曖昧になりがちなプロセスの進捗を数値で管理することができ、確実に目標に近づくことができます。
具体例としては、定着率、研修参加率、女性管理職の比率、従業員満足度などが挙げられます。
③:効果検証・改善
施策を実践したあとは、定期的な効果検証・改善が必要となります。①②で得たデータは、取り組みや改善に反映させていきましょう。
人的資本経営を成功させるためには、Plan(計画)・Do(実行)・Check(評価)・Action(改善)のPDCAサイクルをスピーディーに回しながら、人事戦略含めた経営戦略に磨きをかけていくことが必要です。
人的資本経営を実践している企業の事例
ここでは、実際に人的資本経営を取り入れている3社の事例を見てみましょう。
①:株式会社荏原製作所
荏原製作所では、中期経営計画に掲げる「グローバルでの持続的成長を実現するための基盤整備」「競争し挑戦する企業風土への変革」を達成するため、経営戦略と連動した人材施策やKPI、その成果などを明示しています。
(引用:荏原グループ統合報告書 2023)
また、アルムナイ(自社の退職者)のネットワーク構築や、外部との共同研究、専門家の招聘などを行い、知・経験のダイバーシティを向上させている点も注目すべきポイントです。
②:旭化成株式会社
旭化成株式会社は、経営戦略実現のために必要となる人材の量・質を洗い出し、1年に1度人材ポートフォリオを構築しています。実際に、採用や人材育成は、この人材ポートフォリオに基づき行っています。
また、事業変革に必要なDX人材をレベル1からレベル5まで可視化し、レベル4、5の高度DX人材育成に向けてKPIを設定。その結果、2021年度には育成目標230人を達成しました。
(引用:旭化成レポート2023)
③:株式会社サイバーエージェント
広告代理事業、メディア事業、ゲーム事業、テレビ事業と、事業領域を増やしていく中、継続的にリスキルの領域を特定し、勉強会を実施。同じ目標を持つ仲間と学ぶことで、組織的なリスキルを成功させてきました。
また、社員のコンディション把握ツール「GEPPO」で従業員のエンゲージメント状況を毎月把握しているほか、社内異動公募制度の「キャリチャレ」や、適材適所を実現する社内ヘッドハンター組織「キャリアエージェント」など、従業員のエンゲージメントレベルを向上させる仕組みを積極的に取り入れています。その結果、「働きがいがある」と答える社員が87%と、非常に高い数字を誇っています。
(引用:株式会社サイバーエージェント|CyberAgent Way)
まとめ
人材を投資対象として捉える「人的資本」の考えは、世界中で注目を集めています。日本では、現時点で大手企業に対してのみ開示義務がありますが、今後はこの流れが中小企業にも波及していくものと考えられます。
「うちの会社にはまだ早いかな…。」と感じていても、ほかの企業より先手を打つことで、競争優位性を築くことができるかもしれません。人的資本経営を実践する際は、今回ご紹介した3Pや5Fモデルや企業事例をぜひ参考にしてみてください。